なぜ?日本人には「ガロンボトルビジネス」の本質が理解できないのだろう?
それは、
水道水の危険性が伏せられているからに他ならない。水道水の危険性が「公」にされたら、誰もが水道水を飲まなくなる。人々には、水道の原水の汚染は理解できている。工業化が進み、その廃液が川に流され、昔なら泳げた川がドブのように変わり果てている。
その「水」の中の不純物を薬品を使って凝固させ、沈殿させる。その上澄みに塩素を加えただけのものを配水しているのだから、誰もがそれをそのまま飲むことはためらう。
だが、水道水の汚染は、みんなの知らないその先で佳境を迎える。
浄水場を出る時、水道水は「飲用適」の基準値に収まっている。取りあえず、決められた数値をギリギリでもクリアできないものなら供給はできないからだ。
しかし、その後水道の蛇口から出てくるものを検査する機関はないし、検査する機能も存在しない。
日本はアメリカのやり方を一途に追いかけてきた。
「エポキシ系塗料」を塗ったのも、アメリカを真似たまでのことだ。だが、間もなくして
アメリカではEPA(環境保護局)が、その使用を禁じた。しかし、日本はなかなかその使用を止めなかった。そして、アメリカは水道管を寿命毎に換えていくことの限界にも気付き、天然水や蒸留水やオゾン水の宅配へシフトした。アメリカ人の合理性は、すばやい転換を可能にさせる。が、日本人は一度始めると、余程のことがないかぎりやめない。水道の場合は、それが斯様に深刻の度合いを深めてしまっているのに、抜本的な対策に乗り出さない。誰も解決策を見いだそうとせず、「そんな問題などない!」かの様に振る舞いたがっている。
「1981年いらい、先進諸国の中で日本だけが、がん発症率をじりじりと上昇させている」と神谷レポートは言う。
本当のところは、「どうなのだろう?」「平気!平気!」という人が居る。だが、多くの人は水を買って飲んでいる。その人たちは、「平気」とは考えていない。もっと、進んで「人間は自然の摂理に従うべきだ」と考える人も居る。
だが、ちょっと待て。そもそも、そんな論議は必要なのか?
日本は天然水の宝庫だ。
その恵まれた宝をそのまま飲めば、つまらない心配などしないで済む。それなのになぜ?化学合成物質入りの水を「水道」とし続けるのか?。
天然水を、繰り返し使える容器に詰めて人々に届ける。容器を水道管に見立てて、途中の汚染をショートカットする。それが、現代においては一番合理的な天然水の供給方法だ。そして、その天然水が安く供給できるなら、直ぐにでも「水道の代わり」を担える。
これが、「ガロンボトルビジネスの本質」だ。この本質に沿えば、ガロンボトルビジネスが如何に不況と無縁かが分かるだろう。天然水の安定供給という一点に供給側が徹すれば、地域に根ざした極めて安定的なビジネスが成立する。
もう、そろそろこの本質に気付く人々が出て来ても良いのではなかろうか?
Water Diary
http://eawater.blog46.fc2.com/
より転載。
水道水の危険性について
浄水場を出て、その後家庭の蛇口までの配管に大きな問題がある。
浄水場での濾過方法にしても、つい先日福島の原発事故の後セシウムが水道水に含まれていたことからも絶対的に安全とはいいがたい。
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